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60. ウィルスの殻を利用した機能性ナノ粒子

"Use of the interior cavoty of the P22 capside for site-specific initiation of atom-transfer radical polymerization with high-density cargo loading"
J. Lucon et al., Nature Chem., in press (2012).

ナノサイズのカプセルは今後様々な用途に利用されると考えられている.こういった素材は,例えばカプセルの表面を特定の抗体で修飾しておけば,体内をぐるぐる回りながら患部に集結,カプセルが割れて中の薬剤を局所的に放出する事で副作用を減らす,といったドラッグデリバリーであるとか,MRIで見えやすい希土類元素を含むカプセル表面を修飾して初期病巣を発見するだとかそういう用途があるわけだ.
こういったカプセルを作ろうと思った場合,以下のような特性が十分コントロール出来る必要がある.
・サイズの均一性(均一で無いと,反応や分解がきれいに揃わない)
・表面の化学的な修飾の容易さ(ターゲットと反応する抗体などの付けやすさ)
・内部の修飾の容易さ(ターゲットまで運びたい物質をちゃんと中にくっつけられる)
しかしながら,均一で化学的な特性も揃ったナノ構造を量産する,というのは現代の化学ではまだなかなか難しい.そこで研究者達が目を付けているのが天然のナノカプセル,ウィルス(の外殻)である.

ウィルスは,基本的には非常に形の整ったカプセルの内部に遺伝情報である核酸を入れただけの構造を持っている.その外殻はきっちりと配列の決まったタンパク質で出来ており,サイズと形状が一意に決まったナノカプセルだ.しかも壁面の構成要素はタンパク質なのだから,各所に化学修飾出来る置換基を持っている.こいつを機能性ナノ粒子(の殻)として利用してやろうというのだ.
幸い,人類の遺伝子工学はファージなどのウィルスの配列を自由にいじったり大腸菌などに組み込んでそのタンパク質を量産することが出来るほどに進歩している.そのため量産性にも問題は無い.

今回の論文では,著者らは天然のファージP22の遺伝子配列に手を加え,その殻の一部(といっても,周期構造であるので420個の同種の箇所全部)を反応性の高いチオール(-SH)を持つアミノ酸に変更,70nm弱の正20面体の殻で,内側に反応性の点420個を持つナノカプセルを作り上げた.ウィルスの殻自体をナノカプセルに利用した例はこれまでにもあるのだが,この論文の肝はこの遺伝子改変により組み込んだ反応点である.
カプセルが出来たら,まず温度を上げてカプセル構造に小さな穴を開ける.ここから分子の出入りが可能となる.続いて,チオール基に反応する部分&他のポリマーの開始末端となる部位の2つのパーツを持つ分子を導入する.これにより,内側に420個ほどの反応点を持つ70nm程度の直径のカプセルが完成する.後は適当に,この反応点からラジカル重合でポリマーを伸ばしていけば良い.この使う時ポリマーは,後から好きな機能を追加出来るように反応しやすいアミノ基を持つようにしておく.
このようにして出来上がったのは,直径70nm程度の殻の内部に,ぎっしりとポリマーの詰まった粒子である.しかもポリマーの各所には反応しやすいアミノ基がたくさんぶら下がっている.本論文中では,このアミノ基に蛍光性の分子や,希土類元素のGd3+(MRIの造影剤に使える)と錯形成をする分子を多数ぶら下げている.

本手法の優れている点は,ナノカプセル内部をびっちりとポリマーで埋め,しかもそこに多数の機能性分子をぶら下げられる,という点にある.例えば類似のカプセルにGd3+を詰め込んだ系では,これまでは100-1000個程度のGd3+しか詰め込むことが出来ていなかったのに対し,この論文では約10000個ものGd3+を詰め込むことに成功している.これはつまりMRIで検出されるシグナルが10倍以上になるわけで,非常に高感度な検出が可能になる事を意味している.

まだ化学の及ばない部分を生物に頼り,そこにさらに手を加えることで機能性を出す,という手法はもうしばらくは面白い結果を出し続けてくるだろう.本音を言えば,化学をさらに一段引き上げて生物の特性をぶっちぎる,ってところまで行きたいものなのだが,それはなかなかまだ難しい.(2012.8.28)

 

59. 超原子価は実在か?:硫酸カリウムにおける理論と実験

"Testing the Concept of Hypervalency: Charge Density Analysis of K2SO4"
M.S. Schmøkel et al., Inorg. Chem., 51, 8607-8616 (2012).

今回の論文が対象とするSO42-,結合様式は(少なくともちょっと以前までの)多くの教科書では単結合で結ばれたO-が2つと,二重結合で結ばれたOが2つという構造でかかれ,二重結合と単結合の組み合わせがいろいろ入れ替わった様々な構造の共鳴構造として書かれている.このような単結合と二重結合の共鳴があるからS-Oの結合は2重結合と単結合の間の強さなんですよ,というわけだ. なるほど確かに,S-O間の結合距離は通常の単結合のS-Oより短く強いため,説得力を持つ.そしてこういった結合本数の多いS原子は,d軌道も結合に用いることでこれらの4本以上の結合を持つ構造を実現している,という説明がされる.
しかし,SF6などでもいわれているように,エネルギー的に離れたd軌道の寄与は低いはずである.だが一方で,「比較的エネルギーの高い酸素原子上の非共有電子対(結合に関与せず,酸素上に局在している電子対)からの供与ならあり得るのでは無いか?」などの説も出てきて,こんな単純な分子にもかかわらずなんと未だに議論が続いているのだ.

そこで今回の論文である.本論文では,理論計算による電子分布の予測と,放射光を用いた超高精度の単結晶X線回折による価電子密度分布の実測を組み合わせ,この問題に決着を付けている.X線回折では,X線は電子によって散乱される.通常の単結晶X線回折では,電子が沢山集まっている原子核周辺で散乱が大きく,結合に関与している電子(=広い範囲に広がっており,電荷密度が低い)による散乱波非常に小さく検出しにくい.しかし放射光のやたら強烈で平行性の高いX線を利用すると,原子間の空間中にどのように電子が広がっているのか(=結合軌道がどう分布しているのか)を測定することが可能になってくる.これを利用したわけだ.

さてその結果である.
結論を言ってしまえば,S-O結合は全て単結合であった.つまり,良く(古い)大学の教科書やら高校の教科書やらで書かれていた二重結合を含む構造式は誤りであることがほぼ確定した.また,各S-O結合においては,実は隣接する他の3つの酸素原子上の非共有電子対も流れ込んできており,単結合の2割程度はこういった他の原子からの寄与であった.他の原子からの寄与があるなら単結合以上の結合になりそうなものだが,実は本体のS-O結合において,酸素原子が電子を引き抜こうとする力が非常に強く,共有結合性が弱まりイオン結合にやや近くなっているのだ.このイオンペアに近づいて共有結合が弱まる効果と,隣接酸素原子からの援助で共有結合が強くなる効果が相殺し合い,結果としてほぼ単結合となっていることが明らかとなった.
じゃあ単結合ならなんで結合距離が通常のS-Oより短くて結合が強いの?といえば,こちらはもうイオン間に働くクーロン力である.つまり,S-O結合は,「単結合の共有結合」プラス「S4+とO-1.5の間のイオン結合」となっており,これが単なる単結合の共有結合より距離が短く結合も強い理由となっている.
論文の最後にはわざわざ念を押すように,「本分子の結合は全て単結合であり,結局SO4-2分子は超原子価では無いと言える」とまで明記してある.

このあたりの話,理論的にはかなりのところまで既にわかっていたことなのであるが,実験的裏付けも加わったという意義は大きい.といっても,当分の間は「SO42-は1.5重結合で云々」という教え方も無くならないだろう.何せSF6でd軌道の寄与が低いなんて事は3-40年前にほぼ理論的には大枠で決着がついていることなのに,未だにdを含めた混成が教えられていたりするのだから.(2012.8.10)

 

58. 北極圏における謎の大規模気温上昇

"2.8 Million Years of Arctic Climate Change from Lake El'gygytgyn, NE Russia"
M. Melles et al., Science, 337, 315-320 (2012).

現在の気候モデルによる計算では,温暖化の影響は北極圏で顕著に表れると予想されている.過去の気候変動の影響を知る事は,今後起こる事を予想する上で非常に有益であるため,北極周辺では堆積物の掘削などによる過去の気象状況の調査が進められている.これにより,過去にどのような変動があったのか?という点が解明されつつあるのが現状である.
さて,今回の論文で報告されているのは,ロシア極東のEl'gygytgyn湖における堆積物を掘削し,最大で280万年前までの気温と降水量を調査した結果となる.

過去の堆積物中の元素比からは,その当時の気候が推定出来る.今回用いられているのはMn/Fe比やSi/Ti比などである.MnとFeは比較的似通った化学特性を示し,両者が混じった堆積物を生成するのだが,どの程度の酸化条件下か,pHはどのぐらいか,により微妙に堆積速度が変化する.そのため,堆積物中のMn/Fe比から当時の酸素濃度などが推定できることが知られている.水中の酸素濃度は温度や生物活動により変動するが,他のデータとつきあわせる事でそれぞれの影響を分離出来るわけだ.SiとTiは土壌の主成分であり,周辺からの土壌の流入などにより元素量そのものは増大する.その一方で,Siはケイ酸化合物の形で珪藻やイネ科植物などが骨格を作るために利用しており,これらの植物が繁茂している場合はSiを多量に含んだ堆積物が生成され,Si/Ti比が上昇する.これにより,Si-Tiとも上昇している場合は周囲からの土壌流入が激しかった事を示し,特にSi量が増えている場合は植物が生成しやすい環境であった事を示す.

こういった化学分析を元に,過去の気候が再構築された.さて,過去の氷期や間氷期を示すのに,MIS(Marine Isotope Stage)という区分が用いられる.これは元々海洋堆積物中の酸素同位体比から当時の気温を推定して作られた区分で(そのためMarineの語を含む),現在の間氷期をMIS 1,直前の氷期がMIS 2,その前の間氷期がMIS 3,と順次番号付けされたものである.
まず,現在の間氷期(MIS 1)で最も温度が高かった時期(数千年前の縄文海進期)の気温(夏場の平均気温)は現在より+1.6±0.8 ℃高かったと推定される.これは他の研究からの推定値と一致している.次にMIS 5eの気温は現在より+5±1 ℃とそこそこ高い気温になっている.この時期はグリーンランド氷床がほぼ消滅していた時期であり,最近の研究からこのグリーンランド氷床の消滅は,北半球の広い範囲での気候の変動を連鎖的に引き起こしていた事がわかりつつある.北極点を挟んでグリーンランドの反対側に位置するEl'gygytgyn湖でも,同様にかなりの気温上昇が起こっていたわけだ.まあ,これ自体は北極圏が比較的まとまった気候を示しているのでそれほどおかしな結果ではない.
今回の報告で最も劇的なのは,MIS 11cと31における超間氷期のデータだ.MIS 11は元々,間氷期にしては異常に期間が長かったり,西南極氷床が溶融していたりと他の間氷期とは様相がだいぶ違う事から,超間氷期と呼ばれている.その一方で,最高気温自体は他の間氷期とさして変わらない事から,「超間氷期」という特殊なものではなく,単に長かった間氷期では?といった議論も尽きない.
さてその時期およびMIS 31のEl'gygytgyn湖の堆積物から推測された極東シベリアの当時の気候であるが,気温が現在より8-14 ℃ほど高いという,異常なまでの気温上昇が示唆された.また降水量に関しても,現代で250 mm程度,通常の間氷期で300-400 mm程度であるのに対し,MIS 11cと31の超間氷期では600 mmを超えるような膨大な値が導かれた.この結果が正しければ,MIS 11cや31は,単に間氷期の長さだけではなく,極域の気候における異常な変動幅からしても超間氷期と呼ぶにふさわしい異変だった事になる.

ではこの現在より8-14 ℃もの気温上昇,何が原因だったのだろうか?様々な先行研究から判明している大気組成(各種温室効果ガス濃度),太陽輻射量の増大を考慮に入れても,これほど大規模な気温上昇を説明するにはまだまだ不足しているらしい.従って,気候システムの何らかのポジティブフィードバックが関わっており,それが極地の気温上昇を増幅していたと考えられる.例えば気温上昇による氷塊の融解 → 海流の変化 → 温度分布の変化であるとか,気流の変動などが関わっている可能性だ.しかし何らかのポジティブフィードバックが必要だろうと言うところまではわかったものの,それが具体的にどんなメカニズムなのかは不明で,今後の研究課題のようだ.
また,前述のようにこの超間氷期時期には南極の西氷床も融解しており,この「未知のポジティブフィードバック」は南半球の気候ともリンクしている大規模なシステムである可能性が示唆されている.

気候システム全体は非常にカオス性が強くなかなか解析が進まない対象ではあるのだが,この手の大規模変動に関するモデル計算は何とか実現してもらいたいものだ.といっても,どの程度計算コストが必要なのかを含めまだまだ未開拓な部分が大きいのではあるが.(2012.7.20)

 

57. 銀河を繋ぐ架け橋

"A filament of dark matter between two clusters of galaxies"
J.P. Dietrich et al., Nature, 487, 202-204 (2012).

恒星,銀河,銀河団といった高密度な構造の形成には暗黒物質が重要な役割を果たしたと考えられている.そもそもこういった構造が生じるためには,何らかの原因で物質がどんどん集まってこなくてはいけない.この原動力としてすぐに思い浮かぶのは重力であって,例えば均一なガスであっても偶然に揺らぎとしてある程度物質が集まった領域が生じれば,重力の効果により質量が質量を呼ぶ連鎖が起こり恒星や銀河を作ると考えられる.
ただし事はそう単純には解決しない.原初にあった物質の揺らぎの程度は,WMAP衛星などによる背景輻射の観測からわかる.ところがその密度揺らぎと当時のガスの温度を考えると,あまりにも圧力が強すぎて十分な大規模構造を作る事は出来ないのだ.つまり,多少の密度揺らぎで粒子が集まった領域が出来ても,(光子を介した)粒子間の相互作用が強すぎる&温度が高すぎるため,それ以上揺らぎが成長する前に拡散してしまうのだ.

これを解決する鍵が暗黒物質である.暗黒物質の正体はともかく,それは質量を持ち,さらに重力以外では粒子間でほとんど(もしくは全く)相互作用しないと考えられている.粒子間で相互作用がないという事は,圧力による膨張を考えずにどんどん集合していける事を意味する(もちろん,運動エネルギーによる拡散はあるが).このため,通常物質がその圧力によりなかなか凝集出来ない間にも暗黒物質は重力による凝集が進み網状の構造を構築.その後ようやく温度が下がり凝集出来るようになった通常物質は,先に凝集している暗黒物質の大規模構造の重力に引きつけられ,同じような位置に集まって恒星や銀河,銀河団といった構造を作ったと考えられている.
このモデルは非常にうまく現状を説明出来るのであるが,観測面で大きな問題を抱えていた.通常物質の背景となるべき「暗黒物質の網目状大規模構造」がまだ観測されていないのだ.暗黒物質の存在そのものは,重力レンズ効果などにより確認されている.また,銀河団同士が衝突している部分の重力レンズ効果の観測により,銀河と重なるように暗黒物質の塊が存在している事もわかっている(物質同士は相互作用が強いので摩擦ですぐに減速する一方,暗黒物質は相互作用が弱いのでより遠くまで行って戻っての振動を長く続けるため,両者の分布にしばらくの間ずれが生じる).

しかしこういった銀河団などの通常物質とともに動いている暗黒物質ではなく,前述の網目状構造を取っている背景としての暗黒物質というのはこれまで観測されていなかった.というのも,暗黒物質が多量に集まっている点というのは当然通常物質も引きずり込まれて集まっている(=銀河となっている)わけで,通常物質を伴わない暗黒物質の網(=密度の低い暗黒物質の構造)を重力レンズで見つけるのは非常に困難だからだ.幸いな事に,今回著者らが解析を行った銀河団の間の暗黒物質フィラメントは非常に観測しやすい方向になっており,それが本論文の発見に繋がっている.

解析の対称としたのは,Abell 222および223という近接した銀河団である(後者は実際にはかなり近接した二つの銀河団からなる超銀河団であるが).この両銀河団の引き起こす重力レンズ効果による背景の歪みに対し,様々な質量分布を仮定してその時起こる歪みと比較・フィッティングを行う事で実際の質量分布を求めている.初期値としては見えている銀河団と一致する大きな質量+単純に両者を結ぶ線状の質量分布を用い,そこからマルコフ連鎖モンテカルロ法でランダムに変化させながら最適(に近い)解に落とし込んでいる.
その解析の結果,両銀河団(正確に言えば,Abell 223は2つの銀河団を含むので3銀河団)の中心に大きな質量があり,それとは別に両者を繋ぐ回廊部分にもほどほどの量の質量が観測された.この部分には目立った通常物質は存在していないので,これは両銀河団をを暗黒物質のひもが結んでいる事の一つの証である.解析結果から求めた質量はAbell 222が太陽質量の2.7*1014程度,Abell 223が3.4*1014程度であったが,これは以前に求められた結果(ここでは,両銀河団を結ぶフィラメント状の暗黒物質の分布は考慮されていない)の半分程度となる.つまり,両銀河団に匹敵するような質量が両者を結ぶ暗黒物質のひもとして存在しているわけだ.なお,光学的な測定から推測したこのフィラメント領域での通常物質のガスの量は太陽質量の6*1012程度と見積もられており,この部分での質量の大部分は暗黒物質由来であると考えられる(ガス量の見積もりにはかなりの単純化が入っているが,まあそれでも暗黒物質が主である事は動かないだろう).
このフィラメント状構造が見えたのには,その角度が観測に適していた,という点も指摘されている.両銀河団のハッブル定数の差から,これら二つの銀河団がどういう位置関係なのかが推定されている.その結果,この2つの銀河団を結ぶ線(暗黒物質のフィラメントの方向と一致)は,地球から見ておおよそ45度の角度に位置しているのだ.ひもを横から見ると距離は長いが(視線方向の)密度は低い.逆にひもが視線方向と一致していると密度は高く見えるがひもの両端の銀河団と重なってきて見分けにくい.今回の場合,斜めになっている事で視線方向の密度が高くなりつつ(=重力レンズ効果が測定しやすい),両銀河団はほどほどに離れている(=分解能的に分離しやすい)という状況だったわけだ.

今後はさらに高感度・高分解能な衛星の打ち上げなども計画されており,この手の発見は数を増やしていくものと思われる.(2012.7.12)

 

56. 細菌を網で捕らえる

"Human α-Defensin 6 Promotes Mucosal Innate Immunity Through"
H. Chu et al., Science, in press (2012).

腸というのは免疫において非常に重要な地位を占めており,例えば人間の免疫細胞の約7割が腸に存在する.これは考えてみれば当然の話で,腸というのは膨大な数の常在菌が存在していたり,外部から取り入れたものが直接体内の細胞に触れるなど,感染の危険が非常に高い器官であるからだ.その腸における免疫の主役の一つがパネート細胞と呼ばれる細胞であり,ディフェンシン(defensin)と呼ばれるタンパクなどを分泌して細菌と戦っている.
さてこのディフェンシン,主なものにHD5(Human α-defensin 5)とHD6がある.前者は細菌に対し活性を示し,細菌の細胞膜に素早くとりついて相手を破壊する.ところがHD6に関しては,かなりの量が生産されており免疫において重要な役割を果たすとは考えられているもののそれ自身には殺菌効果はなく,実際にどのように働いているのかは謎なままだった.
今回著者らは,このHD6の作用機構を解明し報告している.

研究にあたっては,マウスにHD6を作る遺伝子を組み込んだものを用いている.まず,HD6が免疫に関係しているのかどうかを確かめるために,HD6を組み込んだものと野生型のの双方の集団に対しサルモネラ菌を投与した.野生型は6日後に半数が死亡したものの,HD6を作れるマウスは全数が生き延びていた.
それぞれの体内での菌の様子を見てみると,HD6は殺菌作用を持たない事から予想される通り腸内でのサルモネラ菌の数は野生型も遺伝子改変型も変わりはなかった.その一方で,脾臓内やパイエル板(敵細菌を取り込んで解析,免疫系への司令塔となる腸の免疫の主役の一つだが,細菌と積極的に接触するため感染のとっかかりともなる.攻撃の要にして同時に弱点でもある)などでのサルモネラ菌数は野生型に比べ1-2桁少なかった.つまりHD6は,腸内で細菌を殺すのではなく,細菌が組織内に侵入するのを防いでいるわけだ.
この効果をさらに確かめるため,サルモネラ菌をHD6で処理し,その後野生型の細胞に対し感染させる実験を行ったところ,感染率の顕著な減少が見られた.その一方で,野生型の細胞をHD6処理し,その後サルモネラ菌を投与すると普通に感染することもわかった.つまりHD6は,各細胞の免疫機構などを駆動するシグナルなのではなく,それ自体が細菌に何らかの影響を与えて組織への感染能力を減じさせる効果があると考えられる.

続いて,非常に感度の高い分光法を用いて細菌とHD6,および比較用にHD5との反応を調べている.HD5は通常の抗原抗体反応と同じように,細菌に対して迅速に吸着し,そして洗うとそこからすぐに外れていく.
これに対しHD6は,細菌への付着は非常に遅い.これはつまり抗原としてくっつくと言うよりは,ランダム・確率的に細菌にくっつく事もある,というような挙動である.その一方で,HD6に関しては洗っても細菌からはほとんど外れない.それどころか,時間をかければかけるほどどんどん細菌へ付着していく.通常の抗原抗体反応なら,くっつくべき場所が全部埋まったらそこでおわりである.ところがHD6はどんどんとくっついていくわけで,これは何か特殊な事が起こっているはずだ.
そこで著者らは遺伝子改変型マウスの体内から,サルモネラ菌がいる部分を取り出し走査電顕で観察した.するとサルモネラ菌に非常に細い糸がまとわりついていた.つまり,HD6は体内で次第に自己組織的に集合しナノファイバーへと成長,それが絡まった糸(網と言っても良い)となり細菌を絡め取る事で組織内への侵入を防いでいたのだ.
この効果は非常に確率論的なものであるし,特定の敵を狙い撃ち出来るような効率の高いものではない.しかしその一方で,幅広い細菌類に対し物理的にその侵入を防ぐ事が出来る,という汎用性があるのだろう.

さすがはナノマシンの宝庫である生体.実に様々なものが発見される.(2012.6.22)

 

55. 捕食者の存在は,回り回って腐葉土の分解速度に影響する

"Fear of Predation Slows Plant-Litter Decomposition"
D. Hawlena, M.S. Strickland, M.A. Bradford and O.J. Schmitz, Science, 336, 1434-1438 (2012).

自然界では食物連鎖によりそれぞれの種が他の種の生息数に影響を与えている.さて,捕食者が他種の生息数に与える影響は,通常は食った食われたの関係による数の増減だけと思われている.しかし今回,著者らは思いもよらない関係が成り立っている事を発見し報告している.
著者らが今回注目したのはバッタとその捕食者であるクモを含む生態系だ.まず結論から書いてしまうと,「バッタを補食するクモがいると,腐葉土(というか,枯れ藁などを含む植物性の廃物)の分解速度が低くなる」という,風が吹けば桶屋が儲かる,とでも言うかのような関係だ.

まず,物事の流れを順に見ていこう.
捕食者であるクモが存在する環境では,バッタには大きなストレスがかかる.ストレスのかかる環境では熱ショックタンパク質(ある程度の高温などでも他のタンパク質がきちんと形を作れるよう折りたたみを助けたりするのでこの名がついていいる)の増産やら代謝の活性化をはじめとして様々な対ストレス機構が駆動される.まあ大雑把に言ってしまえば,外界が住みにくくなった際に何とか生き延びようとする各種機構を働かせるわけだ.
このストレス応答は当然のことながらコストがかかる(コストがかからず生存性が上がるなら,常日頃から動かしているはずだ).そのため捕食者が存在しストレスのかかる環境では,バッタは栄養価の高いえさをどんどん食べ,体内に炭水化物系の栄養を蓄積する.さてその一方,生物の基本元素として窒素が存在するのだが,こちらはなかなか蓄積が難しい事でも知られる.結果として,ストレスがかかり代謝が活性化された生物内では相対的に炭素の量が増え,窒素の量が減少する事が以前から知られている.実際,今回の論文で著者らが調べたストレスフリー環境とクモのいる環境では,C:N比が前者では3.85,後者では4.00と,わずかながら捕食者の存在する環境の方が炭素が多く(窒素が少なく)なっている.

さて,問題はこのC:N比の土壌生態系に対する影響だ.土壌におけるC:N比は,そこに住む微生物の増殖や植物の生長に深く関わっている事が知られている.というのも自然界では有機窒素は比較的希少な栄養素であり,生物の増殖の律速要因の一つだからだ.となると,ストレスフリーな環境でのびのびと育った相対的に窒素を多く含むバッタの死骸と,捕食者におびえながら育った窒素少なめなバッタの死骸では,どちらが(微生物にとって)栄養的に優れているかは言うまでもない.
まず著者らは,ストレスフリーなバッタの死骸と,ストレスありのバッタの死骸を土に埋めた際の分解速度を比較した.なお実験としては,4gの土に対し3.5mg程度のバッタ粉末を加えたらしい.結果,両者の分解速度に優位な差は無かった.これは,バッタの死骸というのが(微生物にとっては)十分すぎるほど栄養に富んだものであるので,まあ不思議はない.

著者らは続いて,「ストレスフリーなバッタを埋めて分解された後の土」と,「ストレスありのバッタを埋めて分解された後の土」に対し藁(に類するもの)500mgを加え,その分解速度を観察した.なお藁というのは微生物にとっては栄養価の低い餌である.するとなんと,ストレスフリーなバッタ(=窒素をちょっとだけ多めに含むバッタ)の側は,2倍の速度で藁が分解されたのだ.
これは驚くべき差である.何せ加えたバッタの量は,藁の量のたった1/140でしかないのだ.しかも主な原因と考えられるC:N比の差(3.85と4)を考えると,含まれている窒素量の差は非常に小さい.にもかかわらず,倍の分解速度,という劇的な差が生まれたのだ.
果たしてこれが本当にわずかなC:N比の差のせいなのか?という部分をはっきりさせるため,著者らは続いて「人工バッタ」を用いて実験を行っている.まあ人工バッタと言っても,バッタの主成分のモデルとしてキチン質やタンパク質などをミックスしたものだが.ストレスフリーなバッタとストレスありのバッタを再現するために,加えるタンパク質の量をわずかに変えて,実際のバッタ同様わずかなC:N比の差を持つように設定されている.この人工バッタ粉末を用いて実験しても,やはり同じように劇的な藁の分解速度の差が観測された.やはり,原因はストレスフリーな方が(ほんのわずかだけ)窒素が多い事にあるようだ.

また捕食者の存在しない地域と,クモなどがそれなりに存在する地域の両方で,バッタが死んだ後の季節に土壌を採取,それぞれに藁を加えたフィールド実験でも同様の結果が得られており,実際の自然界の中でもこの効果は現れていると考えられる.

以上をまとめると,
クモがいる → 焦ったバッタが大食い → バッタ中の窒素が減少 → 微生物の栄養が不足 → 腐葉土の分解速度が下がる
となる.もうちょっと頑張れば桶屋も儲かりそうな雰囲気である.

この研究結果は,捕食者という食物連鎖の頂点にいる存在が,間接的に食物連鎖の最底辺である土中の微生物に対し影響を与えている事を示唆している.このような相互作用はこれまで検討されておらず,生態系というものが想像以上に複雑なネットワークである事を改めて印象づけている.
なんにせよ,こういう予想もしない影響が出てくるところが自然界の面白さであり,また難しさであろう.(2012.6.15)

 

54. メラニン色素が誘引するメラノーマ

"Melanoma induction by ultraviolet A but not ultraviolet B radiation requires melanin pigment"
F.P. Noonan et al, Nature Commnun., 3:844 (2012).

メラノーマ(悪性黒色腫)は皮膚の色素細胞であるメラノサイト(メラニン細胞)が癌化したものである.皮膚癌の発症数に占める割合はそんなに高いわけではないのだが,急速に進行するため皮膚癌関連の死亡率で見ると相当高い比率を占める,つまり発生率は高くないが,一度発症するとかなりまずい,と言うものだ.
このメラノーマ,いろいろと特徴的な点がある.

1. 人種による発生率の差が大きい.白色人種における発生率は他の有色人種での値の10倍程度になり,しかも日光に曝露される部位での発症が顕著に高い.一方他の有色人種では,日光に曝される部位かどうかと発症率にはあまり相関がないことが知られている.
2. 継続的な紫外線曝露はあまり関係がない.炎天下で毎日働く労働者の発症率が高いかというとそんなこともなく,むしろ日頃はデスクワーク,たまに集中して日光浴,と言ったような,日頃は浴びないけど希に多くの紫外線を浴びる,と言う行動がまずい.
3. 特に幼少期において強烈な紫外線に曝露されると後年に発症率が高くなる.2の場合と合わせ,幼少期に断続的に強い紫外線を浴びるというのは非常に悪い結果をもたらす.

多くの癌誘因因子は量が増えれば増えただけ危険になるのだが,メラノーマに関してはむしろ途切れ途切れに浴びるとまずいと言う際だった特徴を持つ.特に白色人種においては太陽光に含まれる紫外線の影響が大きいことはわかっているのだが,その波長依存性や,どのようなメカニズムで癌化しているのか,と言った部分は未だ解明されていない.
今回著者らが報告しているのは,メラノーマの発症メカニズムのヒントになる実験結果である.そこではメラニン色素が重要な役割を果たすと共に,顕著な波長依存性が見受けられた.

実験としては,HGFトランスジェニックマウスを利用している.元々マウスではメラノサイトが毛根部分以外にはほとんど無くメラノーマのモデルとして使えなかったのだが,HGF(肝細胞増殖因子)の部分をいじってやったもので皮膚にメラノサイトを多数持つ遺伝子改変マウスが出来るらしい.そうやって作成したマウスによって人間のメラノーマ研究のモデルとすることが可能となり,紫外線を照射してどのような比率でメラノーマが発生するかの実験に成功した.なお実験においては,皮膚にメラノサイトを多数持つようになったマウス(黒色種)と,メラノサイトは多数あるが色素を作れないアルビノ種の2系統を作成,比較している.
照射する紫外線は,UV-AとUV-Bである(実際には,模擬太陽光相当のものも行っている).UV-Aは可視光に近い波長領域(320-400nm)であり,光子1つのエネルギーは低く化学的な影響は小さいが光量自体は大きい.一方のUV-Bは短波長(280-320nm)であり化学的には分子を容易に破壊・励起するが,オゾン層などによりかなり減衰しているため地上に降り注ぐトータルのエネルギー自体はUV-Aの1/10程度となる.これを反映し,実験において照射している光強度もUV-Bの方がUV-Aの1/10程度としている.

さて実験結果であるが,UV-B,つまり短波長の紫外線に関しては,アルビノ種であれ黒色種であれ同じような比率でメラノーマを発症し死んでいった.これに対し,UV-A,つまり長波長の紫外線を照射した場合には,この二つの種でメラノーマ発症率に顕著な差が観測された.黒色種の方が明らかに発症率が高かったのである.
この原因を調べるために,著者らは続いてDNAの損傷度合いをチェックすることにした.まず行ったのは光化学反応による直接的なDNAの損傷の検出だ.DNAが紫外線により直接損傷する場合には様々な変性物が生じるのだが,著者らはそれらのうちの代表的なものとして隣接するピリミジン塩基間で結合を生じたシクロブタン型ピリミジン2量体や,チミン-チミンおよびチミン-シトシン間で結合を生じる6-4光産物の量を定量している.
ここからわかったのは,短波長のUV-Bを照射した場合には,黒色種でもアルビノ種でも同程度のDNA損傷が起こっている,という事である.これは,両者がUV-B照射時に同等のメラノーマの発症率を示したことと対応する.一方,長波長のUV-Aを照射したサンプルに関しては,これら光損傷による生成物はほとんど存在しなかった.つまりUV-Aでは,光による直接のDNA損傷でメラノーマが生じるわけではない,と推定される.
次に著者らが調べたのは,間接的な反応によるDNAの酸化である.これは,DNAがあまり吸収しないUV-Aの光を他の何らかの分子が吸収・励起し,その分子がDNAにエネルギーを渡したりしてDNAが酸化される,という変異過程である.これを調べたところ,UV-B照射のマウスでは未照射のものとほとんど違いがなかった.ところがUV-A照射の黒色種に関しては,DNAの酸化損傷が顕著に増加していたのだ.一方のアルビノ種では,UV-A照射でもあまり変化は見られなかった.

以上をまとめると, ・UV-A,UV-Bともにメラノーマを生成する.
・長波長のUV-Aでは,黒色種とアルビノ種で発症率に顕著な差がある.UV-Bでは差がない.
・短波長のUV-Bは単体でDNAを損傷させる.
・長波長のUV-Aは直接のDNA損傷は引き起こさないが,他の分子を介してDNAを酸化する.
・メラニン色素を作れないアルビノ種では,このような酸化はあまり起こっていない.
・恐らく,UV-Aにより誘起される反応(もしくはいくつかの連続した反応の途中)でメラニン色素が絡んでいる.
という事が言える.つまり,UV-Aの場合はエネルギーを一度メラニン色素が吸収し,それが移動してDNAを傷つけるわけだ.メラニン色素は通常紫外線などの有害な光から肉体を守るために生成されるわけで,それが実際にはメラノーマの発症に大きく影響している可能性がある,というのは何とも驚くような発見である.
この結果は,既知のメラノーマの特徴にも矛盾しない.つまり,紫外線を恒常的に浴びていて十分なメラニン色素が生産されていれば,その遮光効果により紫外線は内部(生きた細胞の部分)には浸透せず,表皮(死んだ細胞の部分)で止められ影響は少ない.ところが日頃日光をあまり浴びていない人間が強い太陽光を集中して浴びると,メラニン色素の生産が始まる → メラニン色素が照射量の多いUV-Aの光を吸収してDNA損傷を誘起,という反応が起こると言うわけだ.

ただし,マウスと人では以下のような違いもあるため,この結果が即座に人間にも当てはまるかどうかは何とも言えない.まず,人間の方が表皮の厚みがかなりあるため,紫外線の浸透度と影響がかなり異なる可能性がある点.もう一つは,人間は2種類のメラニン色素を持つが,マウスはその一方しか作らないという点である. とはいえなかなか面白い研究である.(2012.6.12)

 

53. X線自由電子レーザーを使った超短パルス・微小結晶構造解析

"High-Resolution Protein Structure Determination by Serial Femtosecond Crystallography"
S. Boutet et al., Science, in press (2012).

単結晶X線構造解析は非常に強力な手段で,十分大きな単結晶さえ作る事が出来れば分子形状・原子の位置などを1 Åを超える分解能で決めてやることが出来る.これにより化学や物質科学などの分野は劇的に進歩したわけではあるが,残念ながら「十分大きな結晶」を作ることが難しい相手には適用出来ない,と言う弱点がある.
結晶化の難しい物質の代表例は非常に大きな分子(自由度の大きな分子)である.結晶というのは(基本的には)分子が形と向きを決まった方向に揃えて詰まって出来るのだが,自由度の大きい巨大分子ともなると変形出来る箇所が多く,なかなかその「決まった形と向き」に整列してくれない.その結果,多数の結晶核から無数の小さな結晶が生成し,大きな結晶に成長してくれない,という事が起きる(極端な場合には,微結晶すら出来ない).こういった傾向は特にタンパク質の結晶化において顕著であり,生体分子の構造をなかなか決められない要因となっている.

結晶が小さいとなぜ困るのか?それはX線を当てたときに出てくる回折パターンが弱くなり,S/N比が悪くなるためである.であるならば,当てるX線を極端に強くし,出てくる回折パターンを強くすればよいという事になる.
これは実際その通りで,放射光(例えば日本だと高エネ研のPhotonFactoryや播磨のSpring-8など)を用いると実験室系では構造が決まらなかったような小さな結晶でも構造が決められるようになる.ならばもっと出力を上げれば,大きな結晶が得られないタンパク質でも構造が決められるかというと,今度はX線による分子の分解が起こってしまう.X線は物質中をほとんど透過するのだが,ごく一部は吸収されたり,物質中の電子を叩き出したりする.超微小結晶でも構造解析出来るような高強度のX線を当ててしまうとこの「微量の吸収」が無視出来ない量になる.具体的に言えば,わずかに吸収されたX線のエネルギーだけで分子が分解してしまうのである. これを解決する手法として研究されているのが,本論文でも扱われているSerial Femtosecond Crystallography(SFX)だ.
発想は非常に単純で,「X線で分子が壊れるなら,分解するより速く測定してしまえば良いじゃないか」というものになる.原子というのは(ミクロスコピックには)非常に重く,動きが遅い.フェムト秒という非常に短いパルス幅のX線であれば,照射が始まってから終わるまでの時間(パルス幅)の間には原子はほとんど移動出来ない.当然,パルスが終わった後には分子は(フェムト秒に比べれば)非常にゆっくりと分解してゆくのだが,回折パターンはもう取り終わっているのでなんの問題にもならない.

さて,いよいよ今回の論文である.
使用しているのは,卵白リゾチーム(Hen Egg White Lysozyme,HEWL)と呼ばれるもので,最初にX線により構造が決定された酵素である(つまり,結晶化しやすく,デモ用のモデルとして優れている).
データ収集の手法は以下のようになる.HEWLの微結晶1×1×3μm程度の微結晶を多数溶液中に分散しておき,ノズルから溶液ごとジェットとして噴出させる.その細い流れに対しパルス状(5fs,40fsの両方で行っており,データの質は似たような感じ)のXFELからのX線を照射し,そこからの回折像をディテクターを何枚も並べた板で検出する.当然「X線を当てたときに結晶がいなかった」とかそういう写真も多いわけだが,それはデータ処理で除く.回折パターンが取れた多数の写真(ただし,それぞれのパターンは異なる向きを向いた異なる結晶からの回折)をデータ解析に放り込み,個々のパターンがどういった向きを向いたどんなサイズの結晶からか,という事を割り出し,適当に補正(例えば2倍のサイズの結晶からのパターンは強度を1/2にして合わせる,とか),回折ピークの強度を抜き出せば,後は単なる単結晶構造解析と同じである.
なお,この1μmぐらいの結晶というのがどんなサイズかというと,一般的な実験室系で使う単結晶のサイズが数百μm角程度(タンパク質などの大きい分子だと,実際にはもっと大きい必要がある),放射光を使った構造解析でも数十μm程度が必要であるから,1桁(体積で言えば3桁)小さくても良い,という事になる.

実際に得られた回折パターンの例が,Supporting InformationのFigure S1(生データ)とS2(バックグラウンド補正処理後)に示されている.いや,こんな小さい結晶からここまできれいな回折像が得られるの!?ってぐらいきれいなデータだ.
これを解析することで,分解能1.9Åで構造がきれいに求まっている(デモ用の既知物質なので,構造そのものが正しいことも確認済み).R値(求まった構造が,どのぐらい実測データと一致しているか,と言うような量.きれいなS/N比の良いデータでちゃんと解析するほど0に近い)は0.2程度と,巨大結晶を作って実験室系で測定した場合(0.17)に比べればやや悪いものの,十分高精度での解析が出来ている.

単結晶構造解析をやらない方には,結晶サイズが1桁小さくて良いというのがどれだけありがたいことかはなかなか実感出来ないとは思うが,解析する方から言えばこれはなかなか大変なことである.こういう手法がどんどん広まると構造解析が楽になってありがたいのだが.
(と言っても,XFEL使うんでそう簡単に使えるものにはならないだろう)(2012.6.8)

 

52. ウィルスで発電

"Virus-based piezoelectric energy generation"
B.Y. Lee, et al., Nature Nanotech., in press (2012).

今まで無駄に捨てられていた微小なエネルギーを何とか回収して有効に活用しよう,というエネルギーハーベスティングの研究が盛んである.例えばわずかな温度差から発電する熱電素子,振動をエネルギーに変える圧電素子,流体の流れを電力に変える素子(手法は機械的な物,化学的な物など何通りかある)といった物が挙げられる.これらから得られる電力は当然微弱な物であるが,近年の半導体技術の進歩により非常に低消費電力のプロセッサ(例えばピコワットレベルの消費電力を実現したPhoenixなど)が開発されており,これらと組み合わせることで常時環境中や体内でモニタリングを行うセンサーチップなどが実現出来るわけだ.

今回の研究はこうしたエネルギーハーベスティングの中でも,圧電素子を扱った物だ.圧電素子とは力学的な変形を与えると電位差を生じる(逆に,電圧をかけると力学的な変形が生じる)物質であり,例えば水晶振動子であるとか,STMの駆動部分のピエゾ(かけた電圧に比例して伸び縮みし針先を動かす)が該当する.こういった圧電素子に電極を付け何らかの力,例えば音であるとか外部からの衝撃を加えると,その一部が電流として取り出せることとなる.
さて,こういった圧電素子であるが,製造はなかなか面倒であったりする.セラミック系の材料が多いため薄膜化にそれなりの設備が必要で手間がかかるとか,組成がなかなか均一に出来ないため材料特性のコントロールが難しかったりするわけだ.それに対する一つの回答として著者らが示したのが,量産が可能で特性のコントロールも比較的しやすい,ウィルスベースの圧電素子である.

彼らが用いたのは,M13と呼ばれるファージの一種だ.ファージは細菌に感染するウィルスであるが,このM13は幅6.6nm,長さ880nmという非常に細長い筒状をしている.筒の内部にはRNAが入っているわけだが,今回利用するのはこの殻の部分の特性だ(RNAも入ったまま使うが,特に意味はない).この筒,さらに細かく見ると棒状のタンパク質が螺旋状に積み重なったものである.棒状のタンパク質が,傘の骨のように中心から外へと斜めに突き出し,この棒が生える位置を少しずつずらしながらぐるぐると螺旋状に積み重なっている.
さてこの棒状のタンパク質,構成しているアミノ酸の配列に由来し,中心を向いた側が正に,外側が負に帯電している.この棒を横からぐっと押しつぶすと棒状のタンパク質の配置が歪み,すると正電荷と負電荷の位置関係が変化するため電位差が生じる.これを圧電素子として利用しようというのだ.
著者らは金基板上にファージの単層膜や多層膜を作成,その特性を評価した.なおこのファージ,非常に長い棒状をしていることもあり,自己組織的に非常にきれいな単層膜が作れるようだ.その結果,圧電素子としての特性はおよそ7.8 pm/V(d33方向),これはまあ代表的な圧電素子であるニオブ酸リチウムを著者らが同じセッティングで測った値の半分程度となる.この値自体は別に特筆するような物ではなく,この数十倍だの100倍だのと言った圧電材料が存在している.

この材料の第一のポイントは,なんと言ってもその量産性の高さである.何せウィルスであるから,大腸菌なりなんなりに感染させて増殖させればいくらでも材料が取り出せる.それらを集めて膜状に固めれば圧電素子のできあがりだ.
もう一つのポイントは,遺伝子操作により特性を変えられる,という点である.M13ファージの殻を作っているタンパクの部分をちょっといじり,末端の負電荷の量を増やすことが出来る.そうすると力学的な変形によって生じる電荷の偏りも増加するため,発生する電力が増加する(これは実際に実験で確認している).

微妙な特性(圧電特性や,成膜などのやりやすさ)やらなんやらを遺伝子操作で調整しつつ,望む特性が決まったら培養でどんどん量産する事によって低コストなマイクロ発電素子を量産出来るようになるわけで,面白い研究だ.(2012.5.15)

 

51. 3Dプリンタで楽々実験器具作り

"Integrated 3D-printed reactionware for chemical synthesis and analysis"
M.D. Symes et al., Nature Chem., in press (2012).

こういった論文が掲載されたことにちょっと驚く.
オープンソースの3Dプリンタ,Fab@Homeというものがあるのだが,今回の論文の著者らはそれを使って実用可能な実験器具を作り,実際の化学研究に利用出来ることを示している.

そもそもこのFab@Home,コーネル大の研究者が始めたもので,2000ドル程度の材料費で3Dプリンタが作れるというものである.基本的な構造としてはX,Y,Z方向に駆動出来るヘッドの先端に注射器が付いており,ヘッド位置および注射器のピストンがプログラムにより制御され,所定の位置に内容物をはき出す.大気中の酸素や水分と反応して硬化する樹脂を充填しておけば,立体物が制作出来る,というものになる.
今回の論文の著者らはこのFab@Homeを使い,樹脂として市販のアセトキシシリコーン(風呂場の隙間を埋めるシーラントとして売られている)を使用,いくつかの反応容器を作成し,手軽に化学実験用のカスタム器具が作れることを実証している.

最初のデモンストレーションはコバルト-タングステン系のポリ酸クラスター(ある種の大きめの錯体の仲間)の合成である.しかもわざわざ新規物質である.
(といってもまあ,この手のポリ酸は組成やサイズの違うものが非常に多種類作成可能なので,新規物質だから特別凄いというわけではない)
なお,3Dプリンタでこの反応容器を作っている部分(の最初のところ)と,実際に反応が起き結晶が析出してくる様子はSupplementary InformationのMovie 1として公開されている.
作成した容器は,下部に観察用のガラス窓(3Dプリンタで側面を作る時に埋め込んでおく),中間に2液の反応室,その上に原料溶液の不溶なゴミを除くためのガラスフィルタがはまっており(同様に埋め込んでおく),その上に細い管状の導入部(2つ)を通り上の原料タンク(2つ)へと繋がっている.
この最上部の原料タンクに,混ぜると反応する2液を別々に入れておく.導入部は細いので,表面張力により溶液は下部反応室には流れ込まない.反応室に溶液を引きずり込む際には,反応容器(シリコーンシーラントで出来ている)の壁面から注射針を刺し,反応室内の空気をゆっくり吸い出す.すると減圧されたことにより上の原料タンク内の溶液が反応室に少しずつ吸い込まれ,反応室内で2液が混ざり反応する.なお原料投入後,注射針を引き抜けばシリコーン樹脂の柔らかさのため針が刺さっていた穴は勝手に閉じられ,容器を振ったりしても漏れてくることはないらしい.
下の窓から観察しながら,反応が十分進んで結晶が析出したら取り出しである.取り出す際は,容器を思い切りよくばっさりと切断し結晶を取り出す.この容器,切断後に良く洗い,切断面に硬化前のアセトキシシリコーンを薄く塗りぐっと貼り合わせてしばらく放置するとまたくっつくらしい.便利なものだ.

次に著者らが実演して見せたのは,電気化学実験用セルである.通常は溶液中に電極を突っ込み,電気分解をしながら流れる電流やら光の吸収を見てやったりする.さて,著者らは今回,電極自体も3Dプリンタで作り込んで見せた.透明なガラス板を底面として,原料となるアセトキシシリコーン(繰り返しておくと,風呂用パテだ)に導電性カーボンを混ぜ込んで3Dプリンタでひょいっと線を引くと,これが立派な導電性のある電極となる.あとは周囲の壁面を通常の樹脂で作って器にすれば電気化学セルのできあがりである.カラス製の下面から光を照射しながら,上面で分光を行えば電解を行いながらの吸光度測定が可能となる.
Supplementary InformationのMovie 2では,電解により呈色する化合物の電解を行い,その変化をデモとして示している.

さて,手軽に反応容器が作成出来る利点はなんだろうか?著者らはその疑問への回答の一つとして,反応容器により起きる反応が大きく変化する有機化学反応を実演している.前述の2液を混合する反応容器と似ているが,反応室のサイズの違う2種類の容器を作り(Supplementary InformationのPDFファイル,Figure S6),そこで起こるある有機反応(詳細は省く)の生成物がこの反応室の大きさにより大きく異なる事を示している.こういった反応容器のサイズの差などは,実は溶液の混合具合などに影響を与えるため,有機反応においてはかなり影響を与えることがある.実際,化学プラントにおける反応などでは,反応容器のサイズや攪拌などの最適化を行い,目的物の収量&純度をいかに上げるか?という部分がじっくりと検討される.ところが実験室レベルでは通常,実験器具は出来合いのものを使いあまりサイズ面などの最適化は行われない(いちいち微妙にサイズの異なる反応容器をオーダーメイドでいろいろ用意すると大変).ところが3Dプリンタを利用すればそういった比較検討が実験室レベルでもやりやすくなるよ,という事だろう.

最後に著者らは,前述のカーボンペースト混合樹脂と似たような手法で,Pd触媒担持カーボンを樹脂に練り込み,反応触媒も一緒に3Dプリンタで作り込んだ反応容器を作成,ちゃんと触媒活性があることを示している.これにより,各種反応を行う場として,触媒もろとも一緒に作り込んだ反応容器が容易に作成出来ることもわかる(Supplementary InformationのPDFファイル,Figure S3).

化学の基本である加熱とかが難しいなどまあ現状ではまだ課題もあるものの,「ある反応に最適な反応容器の印刷データ」なんぞも論文と一緒に配布されるような時代になると面白いかも知れない(多分そんなことにはならないけど). 「○○反応に最適な××研に代々伝わる秘伝の反応容器」とかも面白そうだ.(2012.4.16)

 

50. 剥がせるGaN半導体

"Layered boron nitride as a release layer for mechanical transfer of GaN-based devices" Y. Kobayashi, K. Kumakura, T. Akasaka and T. Makimoto, Nature, 484, 223-227 (2012).

窒化物半導体は高い化学的安定性(劣化しにくい),組成制御により連続的に変化させられるバンドギャップ(発光波長を制御しやすい),高い熱安定性(非常に高温でも動作可能),高い絶縁破壊電圧(高電圧での駆動が可能)といった特徴を持つため,発光素子やパワー半導体といった用途への広い応用が期待されている.しかしその一方で,サファイア基板を代表とするごく限られた基板以外の上には広い面積の単結晶を成長させることが難しいことが知られており,通常はサファイア基板上にCVDによって成膜し,窒化物半導体薄膜を作成している.
これが問題となるのは,実際のチップの作成時である.成膜時にはそれなりの厚さのサファイア基板が必要となる.実際のチップとして使用するにはここから個々のチップを切り出さなければならないのだが,サファイアはよく知られるように非常に堅く研磨も難しいため,ある程度厚みのあるサファイア基板ごと切らねばならず,これは結構手間である.また,小型化のためなどで複数のチップを薄く研磨し積層するという事が良く行われるのだが,厚いサファイア基板が付いたままだとこれも難しいし,厚みがあると言うことは「柔らかい回路」というような物理的変形を伴う用途への利用も困難である.さらにはサファイアと窒化物半導体とは熱膨張率がかなり異なるため,このままではせっかくの窒化物半導体の利点である高温での利用が難しくなる(高温にすると割れを生じる).

そのため,サファイア基板から何とか窒化物半導体を剥がす,もしくは最初からサファイア以外の基板上で窒化物半導体を成膜する,という研究が積極的に行われている.いくつかの手法が開発されているのだが,剥がす方の研究は大きく3つに分けられる.一つ目はレーザーリフトオフ法であり,基板となるサファイア側から強烈なパルスレーザーを当てることでサファイアと窒化物半導体の界面を気化させ半導体本体を剥離させる,という手法である.すぐに想像できるとおりこの手法は窒化物半導体側へのダメージが大きいとか,あまり大面積のチップはうまく剥離出来ない,かなり大規模な設備が必要となる,という問題を抱えている.2つめの手法は化学的エッチング法であり,サファイア基板と窒化物半導体との間に化学的に分解しやすい別の物質を薄く積層する,という手法である.こちらの問題点は,窒化物半導体側に化学的な汚染が生じる可能性,ケミカルな反応を伴うためこちらもそれなりの規模の設備が必要となる,中間に余計な化合物の層を挟むため上にのせた窒化物半導体の結晶性を上げるには窒化物の層を十分厚くする必要がある,などが挙げられる.そして最後の3つめの手法が,比較的容易に劈開する物質をサファイアと窒化物との間に成膜しておき,物理的に剥ぎ取る,というものである.これまた間に余計な層を挟むことによる結晶性の問題が存在する.
今回のNTT基礎研による報告は,最後の物理的に剥ぎ取る,という手法になる.劈開しやすく,かつ上の窒化物半導体(今回はGaN系)の結晶性が良くなるような中間層を開発出来た,というのがその中心だ.

実際の構造としては,サファイア基板の上にまず六方晶窒化ホウ素(h-BN)の薄膜(3nm)を成膜する.h-BNはグラファイトとよく似た構造を持っており,隣接する炭素をBとNに置換したような層状構造となる.当然ながらグラファイトと同じように非常に劈開性が高く,少しの力できれいに(それこそうまくやれば原子レベルでフラットに)剥がすことが出来る(身近なもので言えば,雲母が剥がれるのと似ている).
さて,h-BNはきれいに剥がれるという特徴はあるのだが,その上にはなかなかきれいにGaNの単結晶が成長しない(多結晶化してしまう).そこで著者らは,その上にさらにAlGaNのバッファ層(300nm)を成膜し,その上にGaN(3000nm)を積層することで単結晶薄膜を作ることに成功した.この研究の肝は,このh-BNとAlGaNという素材の選択と,その成膜条件になるわけだ.
こうして出来たGaN基板の上に,今回はさらにGaN/InGaN/GaNという構造を10層重ねている.InGaNは母物質のGaNに比べバンドギャップが狭くなっており,GaNに注入された電子とホールはこのInGaNの層に蓄積される(そこだけエネルギーの低い井戸状になっているので,量子井戸と呼ばれる).そしてそこで電子とホールが結合し発光する.Inの量を制御することで,非常に波長の狭い単色光を発光する量子井戸型のLEDとして働くわけだ.そしてこの10層の量子井戸層の上に,保護用のGaNを100nm成膜して完成である.全体構造としては,

|サファイア基板 | h-BN | AlGaN | GaN | 量子井戸層 | GaN |

となる.
さて,いよいよ剥離である.この作成したサンプル全体を上下ひっくり返し,接着層を塗った適当な基板に貼り付ける.

|転写先基板 | 接着層 | GaN | 量子井戸層 | GaN | AlGaN | h-BN | サファイア基板 |

そしてペリッと剥がせば,劈開しやすいh-BN層が二つに割れて

|転写先基板 | 接着層 | GaN | 量子井戸層 | GaN | AlGaN | h-BN | + | h-BN | サファイア基板 |

と,任意の基板にGaN系半導体素子を貼り付けることが可能となる.後は切り出すなり,研磨するなり,積層するなり思いのままだ.
著者らはデモンストレーションとして,ポリマーフィルム上に電極を蒸着,その上に上記素子を転写し,LEDとして発光させている.なお,本手法で作成したGaN層の易動度は1100cm2/Vsと十分に高い.

本手法は,ミクロンやサブミクロンオーダーの薄いGaN半導体素子を任意の基板上に配置することを可能とする.これまでは基板が邪魔だったりでなかなか使えなかった用途へもGaN系半導体の使用範囲を広げる可能性がある.元々NTT基礎研は窒化物半導体の研究をかなりいろいろやっているのだが,これまでの蓄積がうまいことまとまった,という感じだろうか.(2012.4.12)

 

49. 遠隔的ジュール加熱

"Remote Joule heating by a carbon nanotube"
K.H. Baloch et al., Nature Nanotech., in press (2012).

著者らが以前に開発したナノスケールでの熱分布を見るための手法を,CNTから基板への熱の逃げ方の測定に使用した研究である.CNTは次世代の配線素材としても期待されているが,Siや金属電極との接合部での熱伝導が悪く,どの程度熱が逃がせるのか?という事は重要な研究課題である.単一のCNT-金属接合での熱抵抗などは測定されているのだが,長いCNTが基板に乗っているときの熱の逃げ方の分布を実際に測定した例はなかった.そこで著者らは自分たちの開発した手法でそれを測定したわけだ.
その測定がそのままうまくいっていたら,単なる「測りました!」というつまらない論文で終わっていたことだろうが,そこで思いもよらない現象が発見されたことが報告されている.

サンプルとしては,窒化ケイ素の薄板の上にCNTを置き,その両端にPdを蒸着して電極とする.この2端子間に直流電流を流し,その時の発熱を薄板の裏に蒸着したインジウムの溶け具合からモニタする.
これまでの研究から得られていたPd電極-CNT間の熱抵抗値は4.2m·K/W,これに対し窒化ケイ素基板-CNT間では250m·K/Wと,2桁大きさが違う.そのため事前に予想されていたのは,CNTに電流を流して発生したジュール熱は基板にはなかなか逃げずに両端のPd電極に移行し,Pd電極の広い面積(=基板への低い熱抵抗)を通して窒化ケイ素基板に熱が逃げる,つまりCNTの両端のあたりの基板温度が一番高くなる,というものだった.
ところが,である.実験を行ってみると,実際にはCNTの中央付近で一番基板温度が高い,という結果となった.これはCNTから窒化ケイ素の基板へと非常に高速に熱(エネルギー)が散逸していることを意味している.これは非常に意外な結果であったので,著者らは追加でもう一つの実験を行うことにした.それは,CNTに3つの電極(-A-B-C-)を蒸着し,B-C間に電流を流す,というものである.単にCNTから基板への熱の逃げが速い(CNT-窒化ケイ素間の熱抵抗が,既存の実験に比べ実は低い)だけならば,B-C間に流した電流により発生した熱はまずCNT全体に急速に広がり(なぜならばCNT内部では尋常じゃなく熱が高速に移動する),そして全体から基板へと熱が逃げるため,B-C間だけではなく,A-B間の温度も上がるはずである.
ところが,この場合に温度が上がったのはB-C間,つまり電流が流れている直下の基板だけであった.つまり,CNTと基板の熱抵抗が低いのではなく,CNTに流す電流に誘起されて熱が基板へと散逸していたわけだ.実際,CNTから(原因は不明ながら)ある比率でエネルギーが基板に散逸する,という仮定を置いて温度分布のシミュレーションを行うと,実測に良く合う結果が得られている.

これは現象の見た目的には誘導加熱に近い.IHヒーターなどのように,電磁場を介して離れた基板に熱が逃げているように見えるからだ.しかし誘電加熱は交流に対する応答であるが,今回の実験で用いているのは直流電流であり,違うメカニズムが必要となる.
著者らの想定しているメカニズムは以下のようなものである.窒化ケイ素はかなり誘電率が高く,分極しやすい.そのため光と格子振動が結合したような状態であるポラリトンが発生しやすい.この窒化ケイ素上に乗ったCNTに電流が流れると,その中を流れている電子の作る電場が窒化ケイ素上のポラリトンと結合,電子の移動に合わせてポラリトンを引きずるような事が生じ得る.この結合を通し,電子の持つエネルギーが窒化ケイ素基板上のポラリトンへと伝達され,それが熱として緩和,その結果電流の流れているCNT直下の基板温度が高くなる(基板へエネルギーが散逸しやすい)というものだ.

このモデルが正しいのかどうかはまだ今後の研究を待たねばならないが,微小領域における熱拡散やエネルギーの散逸は一筋縄ではいかないのかも知れない.これは新しい放熱手段に繋がる可能性もあるとともに,逆に妙な場所での発熱や,エネルギーが散逸して無駄に浪費されることにも繋がりかねないため,原理や定量面での研究が重要となってくるだろう.(2012.4.10)

 

48. 超高感度質量検出器

"A nanomechanical mass sensor with yoctogram resolution"
H.D. Penney et al., Nature Nanotechnol., in press (2012).

ヨクトグラム(yg)レベルの分解能を持つ重量測定器である.そもそもヨクトなんて単位は日頃使うものではないので調べると10-24になるらしい.そして水素原子1つの重量(これはほぼプロトンの重量に等しい)がおおよそ1.67ygであり,今回の論文での実験結果での分解能がおよそ1.7ygなので,この手法だと水素原子一個が付いた離れたというレベルで重さの変化が測定出来る.

実際の実験であるが,構造としては「溝の上に架橋されたカーボンナノチューブ」というものになる.基板(Si表面にSiO2と窒化シリコンを乗せたもの)に幅150nmの長い溝を掘る.溝の底にはゲート電極(Au)を配置し,溝を横断するように直径1.6nmのカーボンナノチューブ1本を乗せる.川(今の場合は溝)の上に橋(ナノチューブ)がのっている状態だ.両岸の位置ではナノチューブの上から金(電極を兼ねる)を蒸着する.基板とナノチューブが接している部分では両者に引力が働きぴったりとくっつくので,ナノチューブが自由に振動出来るのは宙に浮いている150nmの部分だけである.
さて,ここでナノチューブの両端に振動電場をかける.ナノチューブの宙に浮いている部分と溝の底のゲート電極とはキャパシタを形成するのだが,このキャパシタンスはナノチューブの振動によって変動する.ナノチューブが溝から遠ざかるとキャパシタンスは小さく,溝の底に向かって移動しているときはキャパシタンスは大きくなる.このため,このナノチューブ-ゲート電極に交流電場をかけると,ナノチューブの機械的な振動と同じ周波数の時に電流が共振するようになる.ここに至り,QCMによる重量測定と同じ事が行えるようになる.ナノチューブに何かが吸着すると重くなり,共振周波数がずれる.これを検出することで,ナノチューブにくっついたものの重さが測定出来るのだ.

これまでにも似たような事をやった研究はあり,そこでの分解能は最高で200ygであった.今回2桁良くなっているのは何が違うのかというと,まず溝の幅を非常に狭くしたこと,ナノチューブを十分細いものを使用すること,極低温(6 K)・超高真空(3*10-14気圧)にして揺らぎやナノチューブへの余計な吸着を減らしたこと,さらに使用前にナノチューブに高電流(8μA,直径を考えるとなんと3*108/cm2以上の電流密度)を流し通電加熱することで吸着分子を飛ばしきったこと,などが挙げられる.
こうした高精度化の努力の結果,積算時間(ノイズがどうしても乗るので,時間積算してフィルタをかける)が1秒程度でも2ygを切るような高い分解能が得られ,原理的には水素原子一つの吸脱着が観測出来るまでに至った.
実例としては,例えば希薄なXeガスを導入し,Xe原子がじわじわくっついたり,時には飛んできたXe原子との衝突でたたき落とされたり,といった挙動を観察したり,その温度依存を見ることでナノチューブ上でのXe原子の吸着エネルギーがどんなもんかを見積もったりしている.またナフタレン分子のようなナノチューブと強い相互作用を持つ分子の場合は,一度吸着するとなかなか移動や脱着を起こさないため,非常にきれいにステップワイズに吸着している様子が確認出来る.

まあある種「限界を極めるための研究」であり,すぐに利用法が出てくるわけではないが,著者らは例えばナノチューブと各種物質との相互作用の解明や,ナノチューブ表面に磁性分子や粒子をくっつける事での磁気プローブの作成(磁場の効果で共振周波数が変わるため,局所磁場が超高感度に測定出来る),質量検出器としての利用などを可能性として挙げている.(2012.4.2)

 

47. 不完全でも十分な擬態

"A comparative analysis of the evolution of imperfect mimicry"
H.D. Penney et al., Nature, 483, 461-464 (2012).

昆虫の中には,自らの姿を他の危険な昆虫に擬態することで生存性を上げている(と思われる)種が多数存在する.それらの中には驚嘆するほど姿(そして時として行動まで)がそっくりなものがおり,自然の妙を感じさせる.
しかしその一方で,「お前らまじめに擬態する気あるの?」と突っ込みたくなるような杜撰な擬態を行うものも存在する.中途半端な擬態では天敵を避ける効果は低いと考えられることから,こいつらがなぜこんな中途半端な擬態を行っているのか?というのは昔から議論の的であり,様々な仮説が提唱されてきた.代表的な仮説としては,
・実は人間の目には似ていないように見えるが,鳥などの天敵の感覚器官(および判断基準)に基づくとよく似ている,という説.
・実はいくつかのモデル種の特徴のハイブリッドであり,個々の要素は個別の種によく似ている.複数の種の特徴を集めたために人間には似ていないように見える,という説.
・何らかの要因で,淘汰圧が弱まりそれ以上の自然選択が進まなくなっている,という説.例えば擬態が必要十分なレベルに達しており,それ以上似せても効果がさほど伸びない場合など.
などがある.
今回の研究は多数の種の特徴の分類や先行研究のメタアナリシスを用いて,この最後の説がもっともらしい,と主張している.

論文で用いられているのは45種のハナアブと,それらの擬態のモデルと考えられる10種の蜂である.これらの体の各部のパーツを数値化(例えば羽や足の大きさの比率とか,縞模様とか)し,多数の評価軸を持つ空間内にそれぞれの種を配置する.そしてその中でどの程度近い位置にいるか,という事で擬態の度合いを判定している.
その結果であるが,まずモデルとなっている蜂類は主に二つの似た位置を占める集団となっていた.これは,本評価手法が(人間がぱっと見た目で判断する似ている・似ていないとは関係無く)蜂を蜂としてきちんと分類出来ていることを示す.その一方で,ハナアブ類に関しては,似ているものも似ていないものもいろいろで,非常にばらけて存在している.そしてその分布は,モデルである蜂の位置(主に2箇所)とは特に関係がなさそうである.つまり,一つの仮説として言われていた「複数の蜂の要素を持ち合わせているから,一見似ていない」というのは間違いであることがわかる(正しければ,「蜂」の二つの位置の中間に分布するはず).また,「蜂」はこの評価法では位置がまとまっていて,一方のハナアブはそれと関係無く分布していると言うことは,「鳥から見たら蜂に似てる」という仮説もほぼ否定される.

その一方で明確に現れてきた相関関係は,「体格が大きなハナアブの種ほど,蜂に似ている」という関係である.特に,蜂の行動までまねるような擬態が進んでいる種は,体格が大きく見た目も蜂によく似ている.このことは,体格の大きなハナアブほど擬態に関し大きな選択圧がかかっていると示唆している.
著者らの解釈はこうである.体格の大きなハナアブほど,天敵にとっては良い餌である.一方,小さなハナアブは,天敵にとっても無理して捜して食べるほどのメリットは少ない.この結果,体格の大きな種ほど鳥などから積極的に襲われることとなり,より正確に擬態していないと逃げられない.小さなハナアブなら,ちょっと蜂に似ているだけで鳥などが「食ってもあまり腹がふくれなそうだし,蜂っぽいからまあいいか」と見逃してくれる,というわけだ.この結果,小さなハナアブの種では擬態に関する選択圧が小さくなり,いい加減な擬態で進化があまり進まなくなり,逆に大きなハナアブの種では必死に擬態を進化させて逃げないと捕食されてしまう,という事になる.(2012.3.22)

 

46. 力学的エネルギーで作る化学的エネルギー

"Mechanoradicals Created in "Polymer Sponges" Drive Reactions in Aqueous Media"
H. Tarik et al., Angew. Chem. Int. Ed., in press (2012).

力学的な運動により引き起こされる化学反応を扱うメカノケミストリーは100年近い歴史を持ち,メカニカルアロイングやソノケミストリーなど様々な分野へと広がっている.今回報告されているのは,水と接触しているポリマー製のチューブを圧縮するだけで過酸化水素を発生させる事が出来る,という現象だ.

著者らは,結合が切断される際にはラジカルが生じると思われる点に注目した.こういったラジカルは非常に反応性が高く,様々な化学種との間で電子のやり取り&結合の生成を行う高活性な部位となる.ポリマー内部ではそのまま生じたラジカル同士が再結合してポリマーが再生する事もあるのだが,特に表面では外気などに触れているため,酸素や水と迅速に反応する事が予想される.

実験はこうである.まず,外径1.5cm,内径0.7cm,長さ7.5cmのポリマー性の筒,つまりホースを持ってくる.なお材質はPDMS,Tygon,ポリ塩化ビニルなどが用いられているが,結論から言えば基本的には外部(今回は水)と接している表面積だけで結果が決まり,材質にはほぼ依存しない.
このホースの中に水を入れ,側面をぎゅっと押しつぶして変形させる.水の入ったホースを押しつぶして,断面が楕円になるように変形させるわけだ.これを適度に繰り返すだけで,水の中に過酸化水素が蓄積してくる.
反応経路としては色々考えられるが,簡略化して言ってしまえばポリマーの断裂で生じたラジカルが水分子と反応してOHラジカル(水分子H-O-HのひとつのO-H結合がラジカル的に開裂したH-O·)を生じ,これが2分子くっつくことでH-O-O-Hの過酸化水素となる.つまり,ホースを変形させる → 変形して中のポリマーが引っ張られる → 一部が千切れてラジカルに → 水と反応して過酸化水素が発生,という流れである.
生じる過酸化水素の量は,水と接しているポリマーの表面積でほぼ決まる(ただし,内部で生じたラジカルも,結合交代を繰り返し徐々に表面に移動してくるので,全く関与しないわけではない).生じた過酸化水素の量は,1回の変形でおおよそ0.7 mg / 1 m2とそれなりの量.

生じるラジカルの量は,「1回の変形あたり」で決まってくるが,変形に要するエネルギーは硬いポリマーほど大きい.逆に言えば,柔らかくて,しかもスポンジ状のポリマーを使えば,ちょっとの外力でたくさんの結合が切断され,多量の過酸化水素が生じる.そこで柔らかいPDMSでスポンジ状構造を作り,それを押しつぶして過酸化水素を生成させると1Jの押しつぶすエネルギーあたり24.2 mg / 1 m2と,単なるPDMSのホースに比べ5倍程度のエネルギー変換効率で過酸化水素が発生した.

さて,過酸化水素はそこそこエネルギーが高く反応性のある分子である.そこで著者らはデモンストレーションとして,ホースの変形で発生させた過酸化水素で,金ナノ粒子の作成,色素の漂白,酸化分解による蛍光色素の生成という3つの反応を駆動して見せた.
まあここで示した3つの例そのものには大した意味は無いが,単純な力学的な変形から高活性な化学種を作るというのは,エネルギー変換であるとか,微少量の化学反応系の構築などで使い道がありそうだ.
また今回,ラジカルを検出しやすい過酸化水素に変換することで,機械的な変形がどの程度分子鎖の切断に変換されているか,と言った部分がきっちり定量化されている.
生じた過酸化水素の量からポリマー鎖が切断された箇所の数を求め,ポリマーを1箇所切断するのに要するエネルギーとの積を取ることで,変形に要したエネルギーの何割が化学的なエネルギー(切断されたポリマー鎖)に変換されたのかを見ているのだが,通常のホースで4-10%程度(硬いホースほど低い),スポンジ状のPDMSに至っては30%にも達する.
これは一般的に思い描くよりもかなり高い変換効率で,力学的なエネルギーが化学エネルギーに転換されていることを明らかにしており,なかなか興味深い.(2012.3.12)

 

45. 単原子トランジスタ

"A single-atom transistor"
M. Fuecgsle et al., Nature Nanotech., in press (2012).

通常の物質からなる素子の最小サイズは明らかに原子サイズである.今回,ほぼ原子サイズのトランジスタが構築された.
通常のSi系半導体素子の作成では光を用いたリソグラフィが行われるが,原子サイズともなれば光源の問題やレジストによる分解能の制限などが生じるため別の手段が必要となる.そこで著者らが用いたのは水素レジストリソグラフィと呼ばれる手法である.これは水素終端されたSi基板を用い,STMで一部の水素原子のみをはじき飛ばしSi原子を露出させる.その後PH3で処理するとこの露出したSiにのみリンが結合,熱処理によりSi原子と置換が起こり選択的なドーピングが可能となる,という手法である.最終的にはさらに上からSiを堆積させることで構造を固定化する.

これを用い,ドーパント1個という最小サイズのトランジスタ領域と,それより遙かに大きなソース&ドレイン電極,やや離れた位置にゲート電極を作り込んだ.電流特性ははっきりとした単電子トランジスタ挙動を示し,作成された微細構造がトランジスタとして問題なく働いていることがわかる.

(少なくとも当面は)本手法による集積回路のようなものの量産は不可能であろうが,超微細領域での電子の挙動を調べるための基礎研究の手段としての微細素子や,位置を原子レベルで制御してのリン原子(核スピンを持ち,量子ビットとして使用可能)を配置した固体・集積型の量子コンピュータへの利用などが提案されている.(2012.2.20)

 

44. クモの巣の強さの秘密を探る

"Nonlinear materials behavior of spider silk yields robust webs"
S.W. Cranford, A. Tarakanova, N.M. Pugno and M.J. Buehler, Nature, 482, 72-76 (2012).

クモの巣というものは非常に繊細な糸から構築されているにもかかわらず,大型の昆虫を捕らえたり強風に煽られてもそう簡単には破れない強さを持っている.この強さは昔から多くの研究者を魅惑し,耐久性の強さが何に由来するのかに関する膨大な研究が行われることとなった.
クモの巣が強いのは,それを構成する糸が強いからではないか?もちろんそれもある.クモの糸は天然素材としては規格外の強さを誇る繊維であり(といっても,単なる引っ張り強度などに限ればそれを超える人工素材は多数存在する),その強い糸から出来ているクモの巣が強いのも当然である.網目状のweb構造が冗長性を高め全体としての耐久性の向上に寄与しているのでは?それもまたその通りであることが研究から明らかとなっている.
さて,今回の論文で報告されているのは,これら既知の効果に加え,クモの糸自身の持つ引っ張りに対する非線形性がクモの巣全体での耐久性に寄与している,という報告である.

そのクモの糸,引っ張りに対し実はかなり複雑な挙動を示す.
まず最初の領域(I)は通常の弾性の領域であり,引っ張り力に比例したのびを示す.まあ有名なフックの法則と同じだ.
この領域は狭く,すぐに次のエントロピー的な弾性領域(II)に入る.これはどういうものかというと,ゴムと同じように,熱揺らぎ(エントロピー項)によりクモの糸を構成するタンパク質の分子鎖がランダムに折れ曲がる事で短くなろうとする力である.まっすぐ引き伸ばされた分子(=長い状態)より,途中でいろんな方向に曲がっている方(=その分短い状態)がエントロピー項の働きにより実現しやすい.引っ張って伸ばすにはこのエントロピーによる折れ曲がりに逆らわないといけないので,その力がいる,という領域だ.この領域の弾性係数(ある距離伸ばすのに,どの程度力がいるか)は領域Iよりもかなり小さく,つまりより小さい力をプラスするだけで長さが伸びていく.
続く領域(III)は,引っ張りにより結晶的な構造が生じる領域である.ポリエチレンなどのポリマーでも良くあることだが,ある程度一方向に引っ張られて分子鎖が伸びきると,左右方向では同じ方向に同じように均一に伸びる分子鎖がぎっしりパッキングされた状況=結晶に相当する.この状況だと,それぞれの分子鎖に加えられた荷重が隣接する分子鎖にも分配され全体でうまく荷重を担うため,結構強度が出る.また分子鎖は既に伸びきっているため,これ以上伸ばすには化学結合(=凄く強い)を引き伸ばす必要もあり,この領域の弾性係数はかなり大きな値になる(=伸びにくい).
細かく言うとさらに,切れる直前に耐えられなくなった糸がずるずると延びる領域(IV,ただしちょっと伸びるとすぐに切れる)もあるのだが,まあ力学的にはほぼ無視してもかまわない. 改めて,上記の3つの領域を持つ糸を模式的に記述してみれば,

10cmのクモの糸を引っ張ると
・10の力を加えると,1cm伸びて11cmになる(領域I)
・そこから急に伸びやすくなり,+5ぐらい力を増しただけ(計15の力)でさらに4cmも伸びて15cmになる(領域II)
・突如堅くなり,さらに1cm伸ばす(全長16cmにする)のに+85の力(計100の力)も必要になる(領域III)
・それ以上引っ張ると切れる

という感じだ.
さて,このような挙動がクモの巣全体の耐久性にどのような効果を与えているのかを調べるために,著者らはクモの巣をモデル化し,その糸の一部を切れるまで引っ張った場合に巣全体にどのようなダメージが行くのかをシミュレートにより求めている.モデルでは,

(a)上記のような力学特性を持つ実際のクモの糸をモデル化したもの
(b)切れるまでフックの法則が成り立つ(=弾性係数が変化しない)仮想的な糸
(c)上記の領域IとIIだけ持つような仮想的な糸(ある程度までは丈夫だが,そこからずるずると容易に伸びてそのまま切れる)

という3種を使い比較している.糸の切れる力とその時の長さは,a,b,cの3種とも同じに設定されている.また全体の構造は実際のクモの巣を模倣し,中心から8方向にまっすぐ伸びる縦糸と,それをぐるぐると螺旋状に繋ぐ横糸から構成されている.この8本ある縦糸のうちの1本をつまんで引き伸ばす,という形で負荷を与えている.
さて,その結果どうなったかというと,実際のクモの糸をモデルにした系が一番破壊が局所的であった.つまり,ほぼ引っ張った部分だけが切れ,他の部分にはあまり影響がない,というわけだ.
なぜこのような違いが出たのかを詳しく見ていくと,それぞれの糸の特性が顕著に表れている.

まず一番被害が大きかったのは,cの「ある程度までは丈夫だけど,そこからずるずると伸びる」という糸であった.ここで何が起こったかと言えば,まず糸の一部をピックアップして引っ張ると,最初はなかなか伸びないものの限界が来るとずるずると伸び出す.すると周囲の糸も一緒に引きずられるわけだが,ピックアップした部分は既に限界の力で引っ張られており,それ以上加えられた力は周囲の糸で支えなくてはならない.しかも悪いことにこの糸は限界の力に達してもそれなりの長さまでずるずると伸びるため変形は拡大し,周囲の糸にかかる力はどんどん増加していく,つまり最初にピックアップした部分の糸は,周囲の糸を巻き込んで被害を拡大する役にしか立たないわけだ.この結果,ピックアップした糸が切れる(この時,切れた糸にかかっていた力を1とする)時に,他の7本の縦糸全てにおよそ0.75の力がかかっていた.これは,巣のある1箇所に強い負荷がかかると巣全体の糸に強い負荷がかかることを意味しており,大規模な破壊に繋がりやすい.

次にbの糸である.この場合,引っ張った糸はほどほどに伸びながらも,ほどほどに周囲に力を伝える.その結果,引っ張った糸が1の力で切れた際に,隣接する縦糸で0.5程度,その他の縦糸には0.35程度の力が加わっていた.

最後に,クモの糸をモデルにしたaの場合である.ある程度強さのある弾性体として働く領域Iは狭いので,すぐに容易に変形する領域IIへと突入する.そして大きく変形しながら他の糸にも力を伝え,巣全体の縦糸が領域IIに入り全体の変形を引き起こす.ここまではcの糸と同じである.違うのはここからだ.クモの糸には,引っ張りがある量を超えると堅くなると言う領域IIIが存在する.これが何を引き起こすかというと,直接引っ張られている糸は大きく変形して堅い領域IIIに入るが,周囲の別の縦糸はほどほどに緩く変形できる領域IIに留まるのだ.この結果,あたかも強い鋼線一本で負荷を支え,そこに柔らかいゴム紐がぶら下がっているような状況が実現する.この結果,直接引っ張っている糸が1の力で切れたとき,周囲の他の縦糸にはわずか0.15程度の力しか加わっていないのだ.つまり,クモの巣のある点に強い力が加わると,その点にある糸にのみ強い力が加わり,他の箇所は柔軟に変形して負荷がかかるのを防ぐ,という事になる.

網状の構造というと,「負荷を全体にうまく分散してみんなで耐え,それにより強度を上げる」という方向を考えてしまうが,実はクモの巣は逆であり,「負荷がかかった部分にだけ困難を押しつけ,他の場所は身をかわすことで被害を局所化して全体がやられるのを防ぐ」という構造になるわけだ.なるほどこれはこれで良くできている.(2012.2.2)

 

43. 水だけ通す不思議な膜

"Unimpeded Permiation of Water Through Helium-Leak-Tight Graphene-Based Membranes"
R.R. Nair et al., Science, 335, 442-444 (2012).

単層グラファイトを基本構造とするグラフェンは,その原子一層分という薄さにも関わらずかなりの機械的強度を持ち,さらに希ガス原子を含め通常のガスを通さないと言う優れたバリア性を持つことから,光や電子線を通しながらサンプルを閉じ込めておけるナノサイズの"窓"としての利用が始まっている.
このように優れた特性を持つグラフェンであるが,大きなサイズかつガスを逃がさないように欠陥の存在しないもの,となるとなかなか作るのは難しい(どちらか一方の条件なら比較的楽であるのだが).小さな断片を何重にも積層するという手も考えられるが,グラフェンのままでは溶媒にも分散しにくいため,そういう手段もとりにくい.

そこで著者らが考えたのが,グラフェンのかわりに酸化グラフェン(Graphene Oxide)を積層した膜である.酸化グラフェンはグラファイトを酸化剤と共に水などの溶液中で処理することにより簡便かつ大量に得られる材料であり,グラフェンの炭素骨格のエッジ部分や,炭素平面の上下に飛び出す形で水酸基(-OH)やケトン(=O),カルボニル基(-COOH)などが付加した構造を持つ.酸化グラフェンの利点の一つはその水などへの溶解度の高さであり,多数の水酸基等の存在により溶液中に容易に分散する.著者らは溶液中に分散したこの酸化グラフェン膜を多数積層させ,0.1から10μm程度までの各種の厚みを持つ膜として成形した.なおこういった酸化グラフェン積層膜,層間隔は10 Å程度であることが知られている.この値はグラファイトにおける層間距離3.4 Åより非常に長いが,これはグラフェン上下に酸化により生じた多数の置換基が飛び出していることを考えれば理解できる.問題はこの層間距離の増大が,ガス透過性にどのような影響を与えるか,である.

そこでこのようにして作成した膜に対し,ガス透過量の測定を行った.まずは厚さ0.5 μmの膜に対し,Heガスの透過量を測定する.Heは原子が軽くて小さい&非常に相互作用が弱い原子であり,ものを透過する力が非常に強く,例えばガラス板なども時間はかかるものの透過してしまう.そのHeガスが作成した0.5 μmの酸化グラフェン膜をどの程度透過するのかを調べたところ,およそ100mbarの圧力までの間で検出限界以下のHeしか透過してこなかった.この透過量は,この作成した0.5 μmしか厚みのない酸化グラフェンの膜が,厚さ1mmのガラス板よりもHe原子を通さない,非常に優れたガスバリア性を持つことを意味している.他の物質でも試したところ,エタノールやヘキサンと言った親水性,疎水性両方の化学種も同じようにきっちりと防ぐ(透過させない)事も確認された.
つまり,酸化グラフェンを使うことで層間距離は増えてしまうが,そこをしっかりと塞ぐ置換基の効果や,離れていてもいくらかは相互作用のあるグラフェン部位のπ-π相互作用により,酸化グラフェン層の間の空間にはガスが浸透できず,ガスバリア性をちゃんと発揮したと言うことになる.これにより,工業的に利用が楽な酸化グラフェンを使っても,しっかりとした極薄のガスバリア膜を作れることが明らかとなった.

ここまではよい.ところが,である.著者らが水分子に対するバリア性を調べたときに,思いもよらぬ現象が起こった.なんと,この酸化グラフェン膜がまるで存在しないかのように,つまり同じ径の穴が空いているときと同等の速度で水が反対側に抜けてきたのだ.実際に示されているグラフは1cm2の穴を通して水が蒸発していく速度と,その穴を1 μm厚の酸化グラフェン膜で覆った場合の蒸発速度であるが,全く同じ程度の速度で水が揮発していく.さらに実験を重ねたところ,どうも水分子はこの膜をほとんど素通りでき,膜の反対側の表面から水が気化していく速度が律速となっているらしい.つまり水にとってはこの酸化グラフェン膜は,スポンジのように容易に向こう側まで透過できるすかすかの存在なのだ. では水とHeを混ぜたらどうなるのか?その実験を行ったところ,まるでこの膜が水の塊で,その中をHeが拡散していたと考えるとちょうど合う程度のHeの透過が確認された.つまりこの膜は,水がある程度存在すると開通して中が水で満たされるトンネルを多数持つようなものだったのだ.その状態だと,水と一緒に他の分子なども(水に溶け込んだ形で)透過していくことが出来る.

なぜ水だけそのような特異的な状況が実現しているのかは定かではないものの,著者らの推測としては,グラフェンの酸化により生じた様々な親水性の置換基が分子・原子の侵入を防ぐ物理的な門のような状態になっており,通常は気体がそこを透過できない.その門の内側には,あまり酸化が進んでおらず,グラフェン的な構造を維持した平面が広がっている.この未酸化部分は要は元々のグラフェンであるから,層間距離が10 Å程度という酸化グラフェンの積層距離のもとでは,上下の層の間には分子が入り込める十分なスペースが存在するわけだ.要は,酸化により生じた置換基が壁と門,未酸化の内側のグラファイト部分が天井と床を成しているホールのようなものだ.通常状態では様々な原子・分子は壁・門の役割を果たす置換基によって侵入出来ないようになっているが,水分子に限っては置換基の親水性により門が開き内部に侵入できる.一度内部に侵入すると,そこは分子一層分程度の高さを持つ広い空間であるから,水分子はどんどん拡散して広がっていく.そしてまた反対側の壁部分から外に出て……と次々に拡散していけるわけだ.

ただ,ちょっと疑問が残る点もある.単に親水性だからと言うだけなら,エタノールのように水と十分混じるだけの親水性のある分子も透過して良いのではないか?という点だ.水酸基などとも十分相互作用出来るし,グラフェン部位に関してはむしろ水より親和性が高い.このあたりについては述べられていないが,メタノール,エタノールあたりに関する挙動との比較は今後面白いかも知れない.(2012.1.23)

 

42. 濡れ性を透過するグラフェンコーティング

"Wetting transparency of graphene"
J. Rafiee et al., Nature Mater., in press (2012).

グラフェンはその薄さゆえに透明性が高く,その一方で薄い割には高伝導性であるため様々な素材への透明電極としてのコーティングが検討されている.コーティングとして使うと言うことは基材とは異なる表面特性が出てくるわけで,そこに注目した研究も多い.今回の論文は,「表面にグラフェンをコーティングしたら,どの程度疎水性になるのだろう?」という疑問を持ち研究を行ったところ思わぬ結果が出た,というものである.

実験は単純で,単層のグラフェンを作り,それをSi(親水性),ガラス(親水性),Cu(疎水性),金(疎水性)の基板の上にのせ水滴を滴下,接触角を測定する,というものである.
その結果であるが,例えば無コートSiでは32.6度だった接触角が1層コートでは33.2度,同じく77.4度だった金では78.8度,85.9度だった銅は86.2度,20.2度だったガラスは48.1度になっている.つまり,ガラスの場合はそこそこ増加しているが,それ以外ではグラフェンコートの有無にかかわらずほとんど同じ値になっており,まるで親水性/疎水性がグラフェン層をすり抜けて上の水に到達しているかのようであった.著者らはこれをwetting transparency(濡れ性透過)と呼んでいる.
この挙動をもう少し詳しく調べるために,Cuおよびガラスに関しては乗せる層数を1から10層までの間で変化させ,その際の挙動を追跡している.その結果,Cuの場合は3層あたりまではほぼCu単体の表面と同じ程度の接触角であったのが,4層あたりから急増し,6-9層あたりでほぼ飽和値の90度前後に落ち着く.ガラスの場合は,前述の通り単層乗せるだけで48度ぐらいになり,1-2層で54度と微増,それ以上の領域でほぼ90度に落ち着く.つまり,グラフェンの層数が2-3層ぐらいまでは基板の濡れ性が透過し,それ以上ではグラファイト的な疎水性が表に現れる,という事のようだ.

親水性/疎水性の効果は,(一部の水素結合のような水と結合を作る表面を除き)基板と水分子とのファンデルワールス力によって決まってくる.確かに考えてみれば,ファンデルワールス力は双極子や表面の分極による電磁気的な相互作用であるから多少は遠くまで及ぶ事が出来る.従ってグラフェンのように非常に薄いコーティングであれば,コーティング層を透過して基板と上に乗った水分子との相互作用がほとんど変わらない,というのはあり得る話である. (そういう意味では,水素結合も起こるガラス表面では単層グラフェンを乗せただけである程度の変化が起こることも頷ける)(2012.1.23)

 

41. 反強磁性原子列によるビットの実現

"Bistability in Atomic-Scale Antiferromagnets"
S. Loth et al., Science, 335, 196-199 (2012).

HDDなどの磁気記録媒体には強磁性体(もしくはフェリ磁性体)が使用されている.このように活用されている強磁性体であるが,記録密度の上昇=微細化に伴い,外部磁場により容易にビットが反転してしまうという問題が生じてくる.
そこで,こういった問題を生じない磁気的記録として,反強磁性体を磁気記録に使おう,という基礎研究が行われている(現時点ではまだまだ実現にはほど遠いレベルではあるが).反強磁性体ではビットの0と1を何に対応させるのかというと,配置の位相の異なる2つの状態に対応させる.つまり,1次元配列の場合で示せば

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である.今回の論文でIBMのグループが行って見せたのがまさにこの実演である.

実際の実験であるが,IBMお得意のSTMを利用した表面系での実験となる.STMとAFMを発明した研究機関なだけあって彼らのこの手の技術は今でも世界最高峰を維持しているが,今回もそれが遺憾なく発揮されている.
まず,Cu2Nの基板上にFe原子を置く.すると,Fe原子は基板との相互作用により非常に強い異方性を持つようになり,Fe原子の持つスピンは(基板の構造を反映した)ある1軸方向にしか向けなくなる.このようなFe原子を基板上で1列に並べると,隣り合うFe原子のスピン間に交換相互作用が働き,隣接する原子では逆を向いた方が安定となる(同じ方向が安定なのか,逆向きが安定なのかは,基板の種類や隣接原子までの距離,乗っている原子の種類などにより決まってくる).彼らはこうやって1×6,1×8,2×4,2×6などの様々なアレイを作成した.
実際に各原子のスピン配置が反強磁性的になっていることは,スピン偏極STMで確認している.観測の結果,1次元の配置(1×6や1×8)はトンネル効果により秒程度の寿命で全体が反転する様子が確認された.トンネル効果であることは,5K以下では反転速度が温度に依存しないことから確認できる.一方,1次元配列間に弱い相互作用を入れた2列の配置(2×4や2×6)ではこのトンネリングは顕著に抑制され,例えば0.5Kでは17時間以上の安定性を示した.まあ,次元性が高いほど揺らぎには強いので,あってもおかしくない現象である.

さて,スピンの配置を確認する際はSTMの探針の電位を2mVとという非常に低い電位にして観察している.これは高い電位をかけるとエネルギーの高い電子がどんどんサンプルに送り込まれ,そのエネルギーによって励起されたスピンの配置が変化するからである.というわけで7mV以上の観測電位を用いると,スピン配列にエネルギーが与えられビットがランダムに反転する.つまり,

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との間をランダムに行ったり来たりするわけだ.今どちらにいるのかはSTMで測定可能であるから,ある意味これはビットに情報を書き込むことに相当する(ランダムに変動させ,書き込みたいビットに一致したところでやめればよい).つまりまあ,1×6の6個の原子からなるビットを作成できたことになる. ヘリウム温度以下の極低温でしか作動しないしスピン偏極STMが要るんで実用性は皆無だが,さすがIBMはきれいな実験をやってのける.2列になると顕著にトンネリングが抑制されるあたりなど,突っ込むといろいろ面白いことはありそうである.(2012.1.13)