Pascalの加算則

 

測定が終わったら,実際のスピンの挙動を抜き出すためにスピン以外の寄与を差し引いてやる必要があります. ここでは局在の挙動を見たいと考えたとします.局在スピン以外の寄与としてよくあるのは 内殻の反磁性,ランダウ反磁性,van Vleck常磁性,Pauli常磁性辺りでしょうか. ここでPauli常磁性はフェルミ面のある金属でしか出ませんし,ランダウ反磁性も広い空間で 運動できるような状況(金属とかそれなりに広いグラフェンシートなど)でしか出ません. van Vleckもランタノイド,アクチノイド辺りなど下の方の元素でしか効いて来る事はまず無いので無視できます.まあ,確かに不対電子を持たない系ではこのvan Vleck項が表に出てきたりもしますが, 今はとりあえず不対電子のいる系のみを考えましょう. そうすると,通常の分子性磁性体で問題になってくるのは主に内殻の反磁性となるわけです.

さて,これをどのように見積もるのか,ですが,非磁性の類似物(有機ラジカルなら,酸化還元,置換などにより ラジカルをつぶした物質)を測ってやりその反磁性磁化率の大きさからおおよそ見積もる事が出来ます(こういったものが一番正確). 非磁性の比較物質がない場合,おおよその内殻(および化学結合から来る)反磁性を見積もる手段として, Pascalの加算則(加成則とかPascal則とかいろいろ呼び方はありますが)がよく用いられています. これは,物質の反磁性は

・個別の原子の内殻電子による反磁性

・結合による反磁性

の効果を単純に足し合わせたものでおおよそ表すことが出来る,というものです. 内殻電子は物質を組む時の結合の影響をほとんど受けませんから,分子中の内殻電子の反磁性が, 原子が同じなら物質によらず一定というのは納得できる話です.そこに結合を作っている非磁性の価電子 の反磁性を各種構造ごとに値を定めて足していくので,まあそれなりの値は出ます.

では,具体例で見てみましょう.まずはAgCl.化学便覧を見ると,Ag+の内殻反磁性の値は -31.0*10-6emu/mol (以下,*10-6emu/molを省略します),Clの内殻反磁性は-20.1と出ています. ここからAgClの内殻反磁性を計算するにはこれらを単に足せばよく,-51.1と 求まります. 一方の実測値も同じく化学便覧に出ており,室温で-49.0とまあまあの一致です. 続いてペンタンについて考えて見ます.まずCが5,Hが12ありますから,それぞれのPascal定数を 探すと-6.00と-2.93と出ています.単純に個数分足してまず-65.16を得ます.実測値を見ると-63.06ですからまあ一致しているといってよいでしょう. 続いて1,2-ジクロロエタンですと,まずC,H,Clから個数分で-63.96です.ここでC-Clの構造 に対する補正定数として+3.1があるのでこれの二倍が適用出来そうですが,Cl-C-C-Clという構造に対する 補正が+4.3と与えられているのでこちらを適用して-59.66となります.実測値は59.57ですから, まあ良い一致でしょう.

ただし,このようによく一致するのは構造が簡単な場合だけで,いくつもの構造が絡み合っていたり, π系の共役が広がっていたりするほど計算と実測がずれていくので注意が必要です. 目安のようなものだと思っておいた方が良いかもしれません. ・・・とはいえ,高温側の挙動を議論しようとすると,(高温ではスピンの磁化率が小さいため) この反磁性の値の見積もりが結構クリティカルだったりするのですけれども.

パスカルの加算則に関しては,以下を参考にしてください.

(最初)P. Pascal, Ann. Chim. Physique, 19 (1910) 5
(改良)A. Pacault, Rev. Sci., 86 (1948) 38
(さらに改良)W. Haberditzl, Angew. Chem. Int. Ed., 5 (1966) 288